ああだめだだめだやっぱり我慢できねえやっぱり語ってやる語ってやるぞう


ユウナ・ロマ・セイランからデス種を斬る
やっぱり嫁さんには実力でカガリに勝利を与えるのは無理だったらしい。彼の行動についてはちゃんと一本線が通っていて、絶対中立という理想よりもまず何より国民の命を優先したがゆえの連合との同盟であるわけだ。少なくとも名目上は。対してどうやってカガリが父(まあ、お粗末な父親だったがそれはここでは置いておこう)の理想と国民の安全をいかに両立させるか、が作品上におけるセイランの役割であった……だが、嫁さんはやっぱりこれを放棄してしまった。つまりユウナを徹底して情けない人間に仕立て上げることで、彼が悪人であるというイメージを植え付けたのである。悪に虐げられるカガリたんかわいそう……悪に立ち向かうやっぱりカガリたんがいちばん正しい! という感情論に持ち込むことでカガリの正当性を維持しようとしたわけだな。シンデレラは本当はもっとひどい人間かもしれないが継母と姉が悪人なので無意識のうちにシンデレラを応援してしまう仕組みの応用である。(((なんかわかりにくいのでもう一つ例をあげれば、弁論で勝てないと悟った政治家がライバルのスキャンダルをでっちあげるようなものだということだ。))そしてこれは「セイラン家とロゴスのつながり」という設定によって決定的になる。フリーダムに拉致されて以来実質カガリは何もしていないのに、なぜ今更オーブに戻っていくのかといえば、セイラン家が視聴者にとっての悪になったから戻るのである。この感情論を補強するために送り込まれたのが、トダカという道化師である。トダカもまたクセモノで、一見オールドファンが待ちわびていた「シブイオヤジキャラ」のように振舞ってはいるが、その実態は上に上げた感情論を補強するための存在であり、理由もなくカガリを応援したりユウナに反抗的な態度をとってみたりすることによって「実はユウナの主張に真っ向から対抗する方法をカガリが持っていない」という事実をはぐらかしているのだ。だから嫁さんのその考えが透けて見える人間にとっては、トダカはこの上もなく気持ち悪い男となる。
そしてこれはジブリールにもいえることで、わざと彼を曖昧に描いて見せることで「なんだかわからないけど悪いやつ=それに立ち向かう主人公たちは正しい!」となる。しかし彼の曖昧さに気づいている人間にとっては「なぜ自分で送り込んだデストロイの存在をバラされたくらいでそんなに焦っているんだ?」となる。このあたりがデス種の商売のうまいところで、物語の深いところに気づかない中学生やライトファン層、腐女子に萌えオタなどはまんまとダマされてグッズを買ってしまうわけだ。主題歌に関してもそう。物語の第二部、3クール目にもなろうというに歌詞が「僕たちは迷いながら」である。物語がどういう方向に転んでも対応できるように曖昧に作ってあるのだ。決定的なのが吉良様のお言葉で「なんだかよくわからないけれどこのままじゃいけないような気がするし何かとても大きなものが働いているみたいだからとにかく何かしなくちゃいけないとおもうんです」という本当に何を言いたいのかわからないセリフである。この後物語がどうなっても、吉良様がどういう行動をとってもどうとでも取れるセリフだ。これを視聴者に気づかれないためにも、彼の「演説」国民が感動の涙を流す。これで吉良様の行動は決定的に「正しい」ものと受け取ってもらえれば勝ちなのだ。一部の視聴者が「あれ? なんかおかしいぞ」と思ったころにはすでに遅く十分な売り上げは回収できている。